2012年9月3日

ある夏の日



例えば「ある夏の日」というような、「ある○○な日」という言葉が好きだ。
写真にタイトルを付けようとするとほとんどそんなタイトルばかりが浮かんで困るぐらいだ。

考え方を変えれば、「ある○○な日」というのは何についてもしっくりくるのかもしれない。
語呂がよく、汎用性も高く、耳慣れなくもないというので使い勝手が良い。
○○を連想するイメージがそこにあれば大体当てはまる、便利な言葉なんだろう。

ただ、そんな便利な言葉ばかりが頭に浮かんでくるというのは、それを形容する他の言葉が浮かばないということかもしれない。
単純に季節や天気を表す言葉を入れるだけで、細かい描写は完全に省き、大雑把に分類しただけである。

写真家を多少なりとも自称するなら物事の細かな変化には気を配り、それに趣を見出すような態度があるといいと思う。
しかし上の話からも分かるように、そうそう深くは考えないのが私のたちだ。



つまり、何が言いたいか。
私は至高とする正義や精神や「あるべき姿」のようなものについてそれなりの考えを持っているし、それを語ることも出来る。だが、それを実行する気概にかけている。

それでもいいとも思う。
だけれど、それは良くないことだとも思ってしまう。

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